2016年4月28日木曜日
報酬型おこづかい制って実際どうなの?
子供のおこづかいを、「お手伝いをしたらいくら」とする方法がありますよね。
洗濯物たたみ10円、お皿洗い20円・・・
小学2年生くらいだと1お手伝い30円くらいが相場のようですね。
スタンプ制にしているご家庭も多いのだとか。
うちも取り入れてたことがあるのですが、早々にやめました。
なぜなら、
価格交渉がいちいちうぜぇ
のと、
お金にならないお手伝いをしなくなった
という理由からです。
たしかに、お昼ご飯の皿洗いと晩ご飯の皿洗いでは量が違うので、同じ報酬というのは納得できないという気持ちは分かります。でも、だからって、「じゃあお皿1枚1円にしようよ!あ、でも小皿とどんぶりじゃ大変さが違うよね。あと、お茶飲んだだけのコップとソースべっちょりの大皿もぜんぜん違うし~」とか言いだされた日にゃ、「もうええわ!」ってなるじゃないですか。
あと、おこづかい制を導入したことによって、お手伝いを出し渋るようになりました。昔はお手伝いも遊びのひとつみたいなものだったようで、頼まなくても「それやりたい!」と言ってくれたのですが、導入後は「ごめんアレ取ってきてくれる?」「いくらで?」と返ってくるようになって、もうこっちも手伝いを頼むよりも自分でやったほうがいいモード全開になるわけです。
やったら上手なのになかなかやってくれないし、いちいち交渉してくるし、何より家族が困ってても報酬がなければ動かないという考え方は良くないということで、我が家のラオウ・夫のオヤビンの「うぬら、家のことは黙って手伝え」とのひと声で、おこづかい制は廃止となりました。
今は、お金は必要な時に必要なだけ渡すようにしています。
何事にもメリット・デメリットがあるように、報酬型おこづかい制も一長一短です。
<メリット>
・ 労働で対価を得ることの充実感を得られる
・ お手伝いに積極的になる
・ 金銭感覚が身につく
・ 家事などの生活スキルがアップする
・ 自分で自由に使えるお金を持てる
<デメリット>
・ 報酬がないお手伝いに消極的になる
・ お手伝いの動機が「思いやり」ではなく「自己利益」になる
・ ルール設定や金額集計がめんどくさい
親が設定したルールに従い、素直に報酬をよろこぶような素直な子にはとても有効です。
しかし、ルール設定段階から参加・交渉したがり、自分が一方的に不利にならないように知恵を働かせるようなタイプの子の場合、親がお手伝いをしてもらうための負荷が重くなります。教育的意味合いがあるとはいえ、日々のことで無理をする必要はないので、子供がある程度大きくなって、ほどよい要求と妥協ができるようになってからでもいいでしょう。
ちなみに、これは報酬型おこづかい制でうまくいかなかったウチの子はダメ、という話ではありません。むしろ喜ばしいと思っています。
他人が勝手に決めたルールに何の疑問もなくのっかるというのは、親としては楽かもしれませんが、私の望むところではありません。自分が損をせず、相手の要求も満たす方法はないか模索できる人間になってほしいです。
もうちょっとしたら、報酬型おこづかい制も復活しようかと考えています。
その時は、カワイイがま口の財布か、おもしろい貯金箱でも買ってあげよう。
2016年4月15日金曜日
給食って授業の時間ですか?
「給食って授業の時間なの?」
学校の先生が、給食の時間も授業と同じ勉強時間だからちゃんとしなきゃダメ、という主旨のことをおっしゃったのだのだとか。
それに対する私と夫オヤビンの答えはコレ。
「「メシだろ」」
いや、そうでしょう。給食はごはんでしょう。メシでしょう。
先生の言われることは分かります。給食の時間も配膳の役割分担や食事マナー、栄養や食材の知識など、学べるものはたくさんあります。昨今の風潮として食育にかける学校関係者・保護者の意欲は並々ならぬものがあるのも関係しているのでしょう。
しかし、学べるものがあるから勉強、っていうのはちょっと違うかなと思います。そんなことを言いだすと、休み時間だって学ぶことはたくさんありますよ。テレビは?パソコンは?ゲームは?家でぼーっとしている時は?キリがないですよね。
遊びや生活の中で自然に身につくものを、いちいち勉強の位置づけにしてしまおうとするのは大人の悪い癖です。勉強だからまじめにやれというのも同様。楽しくたって学べます。自然にシンプルに学んだ方が身につくスピードが早いのに、いちいち上から説教して教育した気になるのは大人の自己満足でしかありません。
給食はメシです。
ごはんは楽しく食べなくちゃ。
マナーや食の知識は、そのために必要なんです。
2016年4月1日金曜日
「保育園落ちた日本死ね」だから伝わったこと
ちょっと出遅れた感があるけど、「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログが大反響を呼んでいます。
ネット上で大騒ぎになるだけではとどまらず、各地で署名運動がおこり、国会で質疑され、デモを誘発するまで発展しました。政治的イデオロギーの材料にされた感があるのは余計でしたが、多くの保活経験者の賛同を得たのは確かです。私の周りでも「わかる」「ほんまそれ」と共感する人が多くいました。
一方で、あからさまに嫌悪感を示す人も少なくありませんでした。その理由としては、
「文章が感情的過ぎる」
「言葉づかいがひどい」
といったものが主にあげられます。
たしかに、「死ね」とか「ボケ」とか「ふざけんな」とは、おだやかではありません。個人のブログとはいえ多くの人の目にふれる前提で書く文章にはあまり採用しない言葉たちです。
しかし、このブログは幅広い読者から賛同を得ました。感情的で、乱暴な文章でありながら、なぜでしょうか。
私は、感情的で乱暴な文章だからこそだったと思います。
もしこれが常識的な文章によって書かれていたとしたら、ここまでの反響はあったでしょうか。
たとえばタイトルの「保育園落ちた日本死ね!!!」を、お行儀よく修正したらどうでしょう。
まず「落ちた」を丁寧語にして、「落選しました」とします。
「日本死ね」は、言うまでもなく日本が国家として滅びろという意味ではなく、行政にしっかり子育てしやすい社会になるよう仕事しろという主旨なので、そのように書きます。びっくりマークは全部削除。するとこうなります。
「保育園に落ちました。行政の皆さん、子育て政策の改善をおねがいいたします。」
なーーーーんにも面白くないなコレ。
バズると思うかい?2000回シェアされると思うかい!?
保活っていうのは一回やってみたらわかると思うけど、すっごい大変なのに、どこか滑稽感の漂う妙な活動なのです。失敗したら失業もありえるまさに死活問題であり、子供に快適な保育環境を与えられるかといった責任の問題であり、そこまでして働かなきゃいけないのかという価値観との戦いでもあります。
認可保育園は12名定員で120人待ちとか意味不明で、認可外にもいいところはあるが質は一定ではなく保育料も高い。クッソ忙しいのに赤子を抱えて一軒一軒見学に出かけ、点数を稼ぐためには何ができるかリサーチし、申込時には不自然に多い書類を手書きして行列に並んで手続きをし、あとは神社に願掛けでもして通知が来るのを待つ。
東京都内周辺ほど激戦区ではない地方に住んでいて、フリーランスで時間がある程度自由になり、無事に第一志望に0歳で潜り込めた私でさえ、激しい不安感と焦燥感と徒労感と、そしてなぜか罪悪感を覚えたものでした。
そんな笑っちゃうような苦労をした挙句、最終的には落選しましたなんてことになった日にゃ、出てくる言葉はこれしかありません。
「日本死ね!!!」
事実や情報を理性的な文章で書くことは、訓練さえ積めば比較的簡単です。
しかし、感情を文章化することは難しい。
試しに、今めちゃくちゃ怒っていることを論理的な文章にしてみてください。
良い文章になればなるほど、怒りは伝わりにくくなるはずです。
多くの情報を正しく伝えるには、論理に勝るものはありません。
しかし、人間は感情を伝えないと共感しあえないのです。
感情的であることは基本的にネガティブに捉えられがちですが、
感情を表現するには感情的な方法が一番です。乱暴で、攻撃的で、下品で、簡潔、それでいて笑いがある。
だから、あのブログは共感されたのです。
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